鍼灸厚生堂ストーリー

鍼灸厚生堂のストーリー

前院長と鍼灸治療室厚生堂

前院長がこの道に入ったのは今から35年前、26歳の時でした。大学卒業後 勤めていた製薬会社を父の病気の為辞め、家業を継ぐ事になり、鍼灸専門学校に入学してからの事です。
 
それまでの私は家業を継ぐことはおろか、鍼灸の道、否、東洋医学の道へ自分が進もうなどとは考えても見なかったことでした。しかし運命の女神は私を東洋医学の深奥の世界へと誘い込んだ様です。鍼灸専門学校に入学した私は2年の時、小野文恵先生の主宰する東方医学鍼灸臨床研究会に入会しました。小野先生は鍼灸古典派の重鎮で、日本経絡治療学界の副会長を勤めた程の人でした。薬科大学生が鍼灸を勉強するなら小野先生の所へ行け、とまで言われた学・技とも秀でた人でありました。東方会(東方医学鍼灸臨床研究会の略)で鍼灸の王道たる古典針灸学を勉強するかたわら針灸学校を卒業した私は昭和49年6月薬局の改造を契機に治療所を開設致しました。針灸治療室厚生堂の誕生です。東方会の方は約10年在籍し、その当時は副会長にもなっておりましたが、家の都合でやむなく退会することになりました。
 

鍼灸治療40年余を経過して

 今の私の臨床の基本は小野先生より直接指導された技術、そして会で学んだ古典針灸の知識の数々だと思っております。

 その後 鍼灸治療と薬局での漢方相談業務に携わるかたわら、漢方医学、そして鍼灸医学の勉強を更に深めた私は50歳を過ぎた頃より日本の漢方医学を超えた本場中国の漢方医学に魅せられるようになっていったのです。その契機となったのが、平成6年6月に行われた中国北京中医医院への臨床研修ツアーでした。
 漢方の薬方の世界では日本漢方と中国漢方という区分けがされておりますが、北京中医医院での中医師の診療のすごさを目の当たりに見た私は、中国医学に真剣に取り組むべく決意を新たにしました。
 その後、縁あって東京湯島にある北京中医薬大学日本校へ入学し、三年間のカリキュラムを終え、平成14年3月、中国政府が主催する国際中医師A級試験に挑戦し、合格したのです。
 今 薬局での漢方相談歴と共に針灸治療歴33年目を迎えた私はこれまで培い勉強したものをベースに更に地域住民の健康づくりの為、尽力する覚悟でおります。それと同時に後進の育成を図ってゆきたい、そしてそれが前院長に課せられた責務と考えております。
 
 
前院長がこの道を志し、治療院を開業したのは29歳の時であるから、今71歳を迎えようとしているので、私の治療歴はざっと37年という事になろうか。およそ40年を振り返ってみると、10年ごとに鍼灸治療に対する考え方、その技術などが変わって来ているように思う。
当初は経絡治療という施術法に魅せられ、経絡治療の根幹を成す【難経・なんぎょう】に準拠する本治・標治併施の治療方式をとっていたが、現在は本治の部分で現代中医学の考え方、治療方式を採用し、施術に当たっている。
この事は私が50歳代の時、北京中医薬大学日本校で3年間中医学を勉強したことがそのきっかけとなったのであるが、それに加えて中医学の理論(特に生理・病理)が医学的に整理されているので、患者の病態を把握する上では中医学の理論が非常に有益であったからである。

 『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』と孫子の兵法にあるが、医療とは正に『敵を知る事』つまり患者さんの病態を知る事であろう。
そして次にその病態をどの様にしたら改善出来るか、という治療論になって来よう。
 現在の私は患者さんの病態を知る事は中医学を、そして病態を改善する鍼の技術的運用には日本で醸成された和方鍼方(わほうしんぽう)を使って施術しているというのが、30年経過した私の最近の施術スタイルである。
 私の携わっている東洋医学の世界、そして鍼という技術の世界は死ぬまで勉強という生涯学習を要求されるフィールドである。従って今後も私が健康で元気である限り、もっと技術を向上させたいし、知識も増やしたい、と思うこの頃である。 

そんな前院長から受け継いで

そんな鍼灸や漢方に対して熱い思いを持っていた前院長(父)から引き継ぎ数年で経ちますが、前院長のように出来ているか四苦八苦しながら日々治療を行っております。
また、前院長のようになれるよう日々勉強をし邁進していきたいと思います。最近の課題はもともと前院長が行っていた経絡治療という治療法と、近年とい入れ始めた中医学の治療法の両立です。なかなか難しいところがございますが、日々努力していく所存です。